長野県 堀田 幸雄
絵の指導は優しさがないとだめ。
優しさと言うのは、こどもの立場にたつこと。
教師は意外と冷血漢になってしまう。冷血漢にならないように、気をつける。
表現は悪いということはありえない。集中して表現した場合は、悪い表現はない。
悪い面しか見えない教師は、自分の腕が悪い。
必ずいいところはある。
常にいいところだけを見るようにする。
そうしないと教師の腕は絶対上がらない。
美術の教師がさっぱり腕が上がらないのは、批評家になってしまう。評論家になってしまうからだめなのだ。
私の知っている美術専攻の教師で、まともになったのはさっぱりいません。
それはどうしてかというと、子どもの立場にたっていない。
作品を上から見下ろして、批評しているから。
差し棒を持っていく。
10点くらい指して、「この中かから自分が好きな作品一点を選びなさい。」
子どもが立っていたら、「選んだら座りなさい」
座っていたら「選んだら立ちなさい。」
全員選んだら(立ったり座ったら)、絵を指していく。
「これを選んだ人。」(挙手させる)印を付けておく。5人とか8人とか。
一番多く選んだ絵から「どこがいいの。」と聞く。
始めは、なかなか答えられない。
ひとことでも「色がいい」「楽しそう」でてきたら、「うーん、えらい、ちゃんと自分が好きな理由がいえた。すばらしい。」とほめる。
そうすると、次々に子供たちが言えるようになる。
子供たちが言った理由を全部肯定する。(ここが大事)
一人たりとも否定してはいけない。
自分が好きな理由であるため、間違えはない。自分が好きな理由を言えたと言うことで、全部肯定する。
子どもは何とか言ってやろうを思って、一生懸命作品を見るようになる。
そのさい、誰も好きだと選ばなかった作品をどうするか。
「この作品は一人も選ばなかったな。先生は、すごくいいとこを10個所も見つけたぞ。だれかみつけた人いるか。」
挑発する。(教師も10カ所も見つけてなくてもいい、うそでもいい。子どもを挑発させる。)
子どもは、作品をよく見るようになる。
いいところをさがす。
それはすごいものです。子どもの目はすごい。どきっとするような鋭い目を発揮する。 そうすると、「ここがいい。」と言うようになる。
「空の感じがなんか夕焼けのようだ。」などと、だんだん高度な内容を言うようになる。
「えらい。おまえは天才だ。先生は感心してしまった。」
そうやっていくと、 こどもは「先生。向こうの作品でもやろうよ。」と言うようになる。
「この10点でやってみよう。」となる。
「いいところをさがす」ということは、「作者の立場に立つ」こと。
いいところをうんと見つける。
たとえば、展覧会の作品で誰も選ばなかった作品を示して、「先生なんか10カ所もいいところをさがしたぞ。」と子どもたちを挑発する。(うそでもいい。)
いいところが見つけれるようになれば、作者の立場に立つと言うことになる。
作者の立場に立つと言うことは、教育の根源です。
図画工作に限らず、どの教科でも同じ。
作者の立場に立てば、その子がどこでつまずいているかが見えてくる。
作者の立場に立てば、どこにその子の良さがあるかも見えてくる。
実践者の立場とはそういうこと。(作者の立場に立つこと。)
けっしてわれわれは批評家・評論家でない。
教育者である。そこを間違わないように。
批評家や評論家に落ちぶれてしまったらもうおしまいである。
ちょっと絵を描ける、絵を描く人の慢心はそこから始まる。
1998年国語・図画工作合宿イン長野 酒井臣吾先生のお話